バス停での出会い(^oo^)

もう一週間程前になりますが、前の前の日曜、たこぶのお父さんの面会に、たこぶのお母さんとたこぶと私の三人で出かけました。お天気はあまりよくなかったのだけど、雨もあがったので、面会の後、大阪城の梅林まで出かけました。梅はほぼ満開!小雨のおかげで、人出が少なく、日曜の午後だったけどのんびり見ることが出来ました。天守閣にもいってみたいというおかあさんのリクエストで、天守閣まわりもゆっくりお散歩。すっかり足も心地よく疲れて、帰りは、森ノ宮から一駅だけ緑橋まで地下鉄で、そこからおかあさんがバスで帰るということで、バス停でバスを待っていました。

とても興味深い出会いがありました。

バス停のベンチに三人並んで座って、バスを待っていた私たちのところに、けっこう勢いよく、どどどっとって感じで女の人が近づいてこられました。両手にスーパーの袋みたいなのをいくつも抱えて、そして、とにかく声が大きいのです。ほとんど怒鳴ってるような感じ。正直、最初は違和感がありました。

「バスまってはります? ちょっとお願いがあるんですけど・・・」とその勢いのまま私達に話しかけられました。

一瞬ひいてしまったのは正直なところです。
お願いってなんだろう・・・と一瞬の間に頭をよぎったのが、「お願いがあるんです、一万円貸してくれませんか?」とか、そんなこと言われたりして・・・なんてことです。知らない人から突然声かけられて、ちょっと警戒しまうのが素直な反応でした。

でも、そのまま話をきいていると、想像とは違う方向に。

「ちょっと電話かけてもらえませんか」と来ました。なんで自分でかけないのかな・・・といぶかっていると、
「耳が全然きこえませんねん」と、ここで謎がとけたのでした。

耳が不自由な方だったのです。だから声が大きかったのですね。
それにしても、言葉がしっかりしておられます。中途障がいなのかもしれないですね。滑舌が素晴らしく、声は大きかったけど、耳が不自由な人の感じがしなかったのです。少しでも疑ってしまったことを心の中でごめんなさいって謝りました。

「◯◯といいます。電話かけてもらって、誰が出てきてもいいですから、靴屋の前で待ってるというてもらえますか?」ということ。

喜んで・・・と、公衆電話まで一緒に行き、そのかたがダイヤルしてくださり、私が電話に。
男性の声で応答があったので、メッセージを伝えます。「わかりますか?」というと「はい、ありがとうございます!」との返事。一応電話を受けてくださった方の名前をうかがって、メモに「◯◯さんが靴屋さんの前でOKとのこと」と走り書きして、その女性に見せました。

おそらく息子さんなのかな。
一生懸命お礼をいってくださいました。「ありがとうございました!」って。
バス停まで一緒に戻りながら、できるだけはっきり口を開けて、「たいへんですね!」といったら、通じたみたいで、「もう慣れました、家からだとFAXなんですけどね」との返事。とにかく、がんばってと、今度はこぶしを作って、ジェスチャーで応援メツセージ。笑顔でお別れしました。

スマホやら携帯やら、電話テクノロジーがどんどん進んでいる時代だけど、耳が不自由な人が、出先で誰かに連絡するってこんなに大変なんだって思いました。誰かに電話したいと思っても、簡単にしてくれる人なんて見つからないだろうし。不便ですね。faxを持ち歩けるようなことってないのかな。あっ、スマホが操れたら、逆に耳が不自由でも大丈夫なのか。メールって耳が不自由な人の電話がわりになるのですね。今気がついた。

素敵な出会いで、いろんなことに気がつくことができて、感謝。
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by butakotanaka | 2012-03-26 17:27 | 日常生活 | Trackback | Comments(0)

昨日発表会がやってくるーと日記を書きましたが、今日は生徒さんも来ない日。そして明日は最後のレッスン。ということで、練習気合入れなければ・・・です。

ここ何日か仕上げの段階に入って(その割にはまだまだちゃんと弾けないのだけど)、どういう練習をしているか・・・というと、かなり非音楽的な練習なのです。

まず最初の1時間、いやそれ以上は、基礎練習。
ドレミファソファミレド、や、ドミレファミソファレド、など自分なりに何種類かの基礎練習パターンがあるのですが、それを歌の発声練習みたいに、半音ずつ上げたりさげたりして、全部の調で弾きます。で、普通に弾くだけでなく、スキップのリズム、逆スキップのリズムなどでさらうのです。

それが終わったら、ハノン。1番から順番に今やってる18番だっけかな。そこまで。まずは左手だけで。それぞれの曲を、普通弾いたら「タタタタ」というリズムだとすると、それを、「タタタンタン」とか「タンタタタン」とか「タンタンタタ」とかリズム変えして、粒をそろえるのです。左手が終わったら次は右手だけ。そして両手あわせて。体力の限界が来たら、休憩しつつ。

音楽を磨くことはとても大切なんだけど、「わかる」ことと「できる」ことは別なわけで、そこが演奏の難しいところ。こんな風に演奏したいとわかっていても、実際、指が思う通りに動かない。なめらかに弾きたいと思っても、ドタドタと不規則なリズムになってしまう。やさしく静かに・・・と思っても、勝手に無神経な音が出たり、逆に指が弱すぎて音が出なかったり。こんな問題を克服するには、やはり基礎練習しかないわけで、自分の意識したとおり、意思どおりに指が反応してくれるように、弱い指も強い指も平均して反応するようにするには、結局は地道な努力しかありえない・・・と、本番が近づくほど痛感します。

基礎が終わったら、やっと曲。でも、気持ちよく弾くのでなく、またまたリズム練習です。
曲もペダルを使わず、ひたすら、タンタンタタとかタタタンタンとか、そんな風にリズム変えて、違和感あるところが見つかったら、そこばっかりひたすら。

でも、そのおかげで、少しずつ、思う音と、実際聞こえる音が、近くなってきます。とても面白い作業だな・・・と、成果が見えてくると、基礎練習が楽しくなるから不思議です。退屈に見えるその練習の先に、感動が待ち受けていると信じられるから。きっと英語の発音にしても、歌にしても、指揮にしても、どんな習い事にしても、同じことなんやろなぁ。本気にならないと、何も起きないってことですね。

さぁ、今日もがんばろうっと。
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by butakotanaka | 2012-03-26 09:55 | 音楽・趣味 | Trackback | Comments(0)

私のピアノレッスン歴。
小学一年のとき、初めてピアノを習い始めました。
先生が家まで週に一度来てくれるレッスン。
母と離れて親戚の家に預けられていた私に、少しでもと母の気持ちだったと思います。ピアノも買ってもらって、今から思うと、贅沢やったなー。当時、電子ピアノというものは存在してなくて、ピアノを習い=本物のピアノを買うという図式だった気がします。でもって、とってもピアノを習うことがはやっていた。習字、そろばん、ピアノをやってる人が多かったな。私もご多分にもれず、習字もやってました。そろばんは習ったことがないなぁ。

で、三年生にならないうちにやめてしまいます。そのレッスンを。せっかくピアノを買ったのにもったいない!と今の私なら思うんだろうけど、その頃は嫌で嫌で仕方がなかったです。練習?ほとんど全くしなかったです。週に一度、先生が来る時間の寸前、10分ぐらいピアノにさわるだけ。あとの一週間はまったく何もしない。ピアノの蓋さえ開けなかったなぁ。そんなんでうまくなるわけもなく、バイエルの途中ぐらいまでしかいってなかったんだっけなぁ。やめた頃。

それから育ててくれていたおばあちゃんもおじいちゃんも亡くなり、小学校の後半で母と暮らすこと。寝屋川から大阪市内に出てきて、中学に入ってからは、少しのあいだエレクトーンを習っていました。たいして真面目にはやってなかったけど、自分からやりたいと言い出したこともあって、ピアノのときよりは真面目だったかなぁ。それも続かず、中学の半ばぐらいでやめてしまったと思います。

で、次にピアノを再開したのは、高校三年のとき。将来保母か幼稚園の先生になりたいと思い、初等教育系の短大に進むことを決めたことで、受験にピアノがあったのですね。これは弾けないとまずい・・・とレッスンにまた通い始めました。その時の先生に言われたことは、今年50歳になる今でも覚えてます。

「一番指が育つ大切な時期にまったくピアノをやってなかったわけだから、あなた、一生ピアノはうまくならないわよ」(^oo^;)トラウマになりそうな言葉です。で、バイエルの真ん中あたりからやり直しました。18歳でここからやり直しでは、ロクなピアノ弾きにならないと思いつつ、保母として子供たちの歌の伴奏できるぐらいまででもいいんだぃって開き直って。

結局、保母にも幼稚園の先生にもなることなく、ソナチネあたりまでレッスンした後また空白があり、大人になってから、合唱団の伴奏をすることになって、またそれに並行して少しレッスンに通った覚えがあります。そのときに見てもらったのが今通っている先生。ちょうど神戸の震災があった頃、通っていました。だから、17年とか前になるのかな。30歳も過ぎてますね(^oo^;)

伴奏することもなくなって、ピアノのレッスンに通う根性も消えて、もうずっとピアノを一生懸命弾くことなんてないのかなーって思ってました。気楽に伴奏するぐらいなら・・・と。

ずっとずっと私の中で、「あなたはピアノ絶対うまくならないわよ」と言われたあの日の言葉が忘れられなくて、あー私の指って動かないんだ、動くようにもならないんだって思ってました。

でも、最近、そういうのがあまり気にならなくなってきました。
今の先生のレッスンを再開したのがおととしの12月だから、まだ一年と四ヶ月ぐらいですか。一つ言えるのは、これまでの中で、自分が一番練習熱心になってるということ。理由は何だろう。

よく分からないけど、つらつら考えてみると。

一つは、音楽経験を積んだことかな。歌とか指揮とかで色々な音楽を経験して、仲間もたくさんできて、ピアノ以外の楽器の音色もたくさん聞いてきて、時にはアンサンブルさせてもらって、音楽に対するイメージが広がったというか、こんな風にしたいという思いが深くなった。だから、練習していても、指が動くとか、弾ける弾けないという以前に、どんな音楽にしたいという方が強くなって、そんな音楽にしたいから、弾けるようになりたい・・・そんな順番になったことかな。

二つ目は、自分の体力に自信がなくなったこと(^oo^;) 若い頃のように無理がきかない。徹夜もできない。一夜漬けも無理。だから日々、少しずつ積み重ねるしかないのです。少しずつしかできない。本番前詰めてできない。だから、本番のかなり前からエンジンが入るようになったのですね。

三つ目があるとすると、身体の使い方に興味が出てきたことかなぁ。指が動く動かないとかいうことが、もちろん年齢や体力の問題はあると思うけど、その限られた条件の中で、どんな風に自分の身体を使い、どんな意識の使い方をすれば、リラックスしてベストな状態になるのか・・・そんなことをいろんな本を読んで考えるようになったのですね。そしたら、案外動いてきた。結果として。いろんな基礎練習が楽しくなってきた。その成果があらわれて来たから。それを生徒さんにシェアして、その生徒さんがまた年齢は高くても、指が動くようになってきて、ますます面白くなってきた。自分が実験台になって、この年令でどこまで成長できるか試したくなってきたのですね。

「この年令」というのが、四つ目にあるのかもしれません。50歳というと、やはり人生の後半。体力を使うピアノの演奏、何歳まで現役でいられるのか、かなり先が見えてきたという思い。のんびり過ごすのもいいけど、ちょっとだけがんばってみようかな・・・と思ってきました。体力がある間に底上げをしておけば、少しでも長く楽しめるかもしれないって。

それから、とても大切なこと。音楽をするという意味が自分の中で深くなってきた。それを自分で認められたことかな。いっとき、音楽が苦しくて、全然楽しくなくて、やりたくなーいって思う時期があったけど、最近、家族の介護のことや、シルバーコーラスの皆さんの輝く笑顔、教会で神様のために賛美すること、いろんな経験を通して、あーやっぱり音楽ってええもんやなーって素直に思えるようになった。音楽を学ぶ環境を与えてもらっていること、素直に感謝できるようになってきた。せっかくここまで学んできたのだから、与えられた贈り物をいかすことは、大切なのかもしれないって。


今度の土曜に、ピアノの発表会です。レッスンを再開してから二回目の本番。
練習をしはじめた頃は、まったく歯が立たないと思った曲が、練習を重ねるうちに少しずつ弾けてきて嬉しい。それでも、本番で緊張して、自分のピアノじゃない楽器で弾くのは、とてもとても不安だし恐怖です。怖いから、また練習します。本番ではどんな演奏になるかわからないけど、練習でしか不安を取り除くことはできないと思うから、あと一週間、心を込めて練習するぞ。

そして、本番では、「発表会」と思わず、「演奏会」「コンサート」だと思って、演奏したいです。習い事の成果を発表するというより、その時聴いてくれる人たちのため、自分ができる最良の音楽の贈り物を届けるのだということ。その贈り物が少しでもいいものになるように、最後の瞬間まで磨き続けるしかありません。

大人になって一生懸命音楽をやること、子供たちが習い事としてやるのと、またひと味違うものがあると思うのです。今までのさまざまな経験が音楽に込められると信じて・・・・。

あー、怖いよー・・・・と不安が何度もおそってくるけど、それを解消すべく、練習・・・・ですね。
ふぁいとー(^oo^)/~~~
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by butakotanaka | 2012-03-25 17:41 | 音楽・趣味 | Trackback | Comments(0)

という気持ちになりますね。さすがに。
東日本大震災からちょうど一年がたちました。
今日、地震が起きた時間には、家のテレビで野球を見ていました。
グラウンドの選手とスタンドのファンが黙祷を捧げるのと一緒に私達も目を閉じて黙祷を。
ふと、「阪神大震災は何時やったっけ・・・」と想い出そうとしましたが、しばらく考えないとわかりませんでした。東日本大震災という大きな悲しみがあって、その前に起きていた神戸の震災が、少し思い出に変わったのかなと思いました。風化させてはいけないけど、それほど去年の出来事が日本全体にショックを与えたということでもあるのかも。そのことで、改めて神戸を思い出したというのもあったのだけど。

去年のこと、思い出しています。
地震が起きたときは、たこぶは会社、私は家でピアノの練習してました。
弾きながら頭がクラクラするなぁ、貧血かなと思っていたら、ピアノの横にかけてあるカレンダーがゆっさゆっさ揺れて、電灯の紐も揺れていた。これは地震だと思ったけど、すぐにおさまるだろうと、それでも弾き続けていました。それでも、揺れがおさまらない。これは、どこか近くであったのか・・・と一応テレビの速報を確かめに上にあがりました。テレビをつけたら、なんと震源が遠い東北。なにこれ・・・・。大阪でこんなに揺れるって、ほなら、近いところはどのぐらい?と背筋が少し寒くなって、神戸のときを思い出しました。すごい揺れだーって思って、大阪が震源に違いないって思ったら、神戸だった。ほなら神戸はどうなってるねんって、神戸に住んでる友人にすぐに電話したんだったなぁと。

PCをつけて、mixiや、twitterで友達の様子を確認。どんな反応やったのか、もう覚えてないけど。
とにかくNHKをつけっぱなしに。そのうち、テレビ画面に津波の様子が生中継でうつしだされる。武田アナだったと思うけど、家が流れていきます・・・・と、感情をおさえつつも、かなり驚いた様子を隠しきれずに実況してはった。目の前で起きていることが信じられなかった。とにかく、会社にいるたこぶにえらいことになってるとメール。たこぶの会社では、テレビとか見てなかったから、私からのメールをみんなに話してえらいことになってる・・・ってなってたらしい。とにかく、一人でいるのが怖かった。大阪だからたいしたことなかったけど、それでも、これからどうなるんだ、何人の人を失いつつあるんだって想像するだけで、怖かった。

それからの数日は、何が何やら分からない日々。
アメリカや外国の友人たちと主につながっているfacebookで、できるだけ現状をレポート。大きな余震が起こるたびに最初の頃は怖かったから、書いてた気がする。そのたびに、大丈夫か?と励ましてくれる友人たちがとてもありがたかった。大阪は日本のどのあたりかわからないから、私や家族が被害にあったんじゃないかと、本気で心配する人たちから、たくさんのメッセージが届き、facebook上や、メールに返信する日々。英語だから大変だったけど、とにかく夢中で毎日のように長い長い英文を書いていた。

そのうち福島の事故が起こり、政府を信用していいのかという論調も出てきた。
その頃、NYにいたときに友達になったラジオ番組の元プロデューサーが、その後BBCに仕事を変えてイギリスに住んでいて、BBCラジオで日本人の一人として政府を信頼できるか話してくれないかと、出演依頼がある。驚いて最初は無理ですーと断るも、他に誰もいなかったらとなり、結局出演することに。あの時は緊張したなー。何を話したかたいして覚えてないけど、とにかく今は政府を信頼して、私達日本人が心をひとつにするしかないということを話した気がする。でも、政府からの情報が遅いのは気になると。スタジオには専門家が何人か来ていて、その議論も電話の向こうから聞こえてきた。

驚いたのはその後、なんと3日連続、BBCのスタッフから電話が入ったのだ。それぞれ別の番組だけど、今度はテレビのショーで電話で声だけの出演はできないかとか、別のラジオ番組は・・・とか。最初は被災地には連絡がつかなかったろうから、私のような遠くに住んでいてあまり影響されていないものでも、誰でもいいから日本人に出演してほしかったんだと思う。日がたつにつれて、被災地にいる人達、もっと影響を受けた人たちに話があったのだと思う。でも、最初の三日間、夜になって電話をとると、「こんばんは、イギリスのBBCです」とか続いたときは、びっくり。友達にだけ電話番号を知らせたつもりだけど、きっとその記録が残っていて、コンタクトを共通で使えるようになってるんだろうなぁ。毎日同じように、どこに住んでるの?影響は?被災地に友達はいないか?紹介してもらえないか?今の政府の対応をどう思う?ボランティアに行くと思うか?とか色々きかれた。結局真夜中の放送で無理だからと出演は断ったから、最初の一回だけラジオに出ただけだけど、BBCのスタッフと3日連続で話をしたというのは、多分生きていてこの先にも起きないと思うし、貴重な経験だったともいえる。こんな悲しいことがきっかけでこんな経験はもうしたくないともいえるし。

現地でできればボランティアしたい、必要とされていれば・・・と思ってはいたけど、結局体力にも自信がなくて、行けなかったなぁ。大阪から物資を運ぶ団体の仕分けボランティアに二度ほどお手伝いにいったぐらいか。

あと、そうそう、夏になって、楽天の試合を観に、これも応援なんだと仙台まで二泊三日で出かけたのだった。楽天が開幕試合を甲子園でしたときにスタッフさんと話す機会があり、仙台にも絶対応援にいきますね、と約束したのがきっかけ。そのスタッフさんと仙台でも再会でき、そして、試合帰りに知り合ったファンの方に、被害が大きかった仙台市若林地区を思いがけず車で案内までしていただいて、とても思い出深い旅になったなぁ。

地震のすぐ後、特に福島のことは、アメリカ人の友人何人かから、本当に深刻な問題なんだよとメールをもらった。個人的にヨウ素を手に入れた方がいいというアドバイスもあったぐらい。

放射能の影響が分からないということで(今だって分からないままだけど)、横浜に住む友人が、ストレスいっぱいの暮らしから少し疎開したいと、大阪に来たこともあったなぁ。友人と娘ちゃんと。受験を前にして大切な時期なのだけど、なかなか集中できないということもあったりして。大阪に来て、うちで一緒に勉強したり、少し買い物したり、ご飯食べにいったり。東京は、ネオンが消えて、お店もお休みが多くて、通りが暗いんだよーって、大阪の明るさに驚いて姿がまだ目に焼き付いてる。その娘ちゃんも、今年無事志望校に合格。よかった。

瓦礫の処理が丸一年たつというのに、まだ5%しかされていないのというは、心底驚いた。これはいったいどういうことなんだろうと。もしこれが、東京近く、もっと関東中心の被災なら、あるいは大阪近辺なら、日本がたちゆかなくなるということで、もっと進んでるんじゃないのって疑ってしまう。東北は、日本全体の経済にあまり関係ないし(関係なくないけど)、たくさん土地が余ってるからほっておく場所もあるってこと? でも、それはおかしい。日本中の都道府県に割り当てたら、もっと進むんじゃないのって思うけど、そんなカンタンなことじゃないんやろなぁ。

一年たっているのに、何が進んだのだろう。
どうしてあげたらいいんだろう。私達に何ができるんだろう。
神戸のとき以上に、政府の対応がとにかく進んでいない印象。
いや、神戸と比べるとあかんのかもしれん。被害の大きさが甚大だし、原発のことが併発しているし、土地や家を持っていた人も、神戸のときみたいにそのままの場所にあって、権利関係がはっきりしていたのと違って、今回は流されてどこにあるか、ご遺体や財産その他、かなり分からなくなっているわけで、きっとややこしいのだろうとは思う。悲しすぎる教訓だけど、でもこれを無駄にしてはいけないのだと思う。それは分かる。でも、この経験を次にいかすとはまだ言えないぐらい、何も終わっていないと思えてしまう。

去年ボランティアに行けなかったとさっき書いたけど、私のように体力はないけど、たとえば少しだけ音楽ができるとか、話し相手ならできるとか、そんなことしかできない人にも、もしかしたら一年たった今年、これから先に機会があるのかもしれない。体力がいるボランティアから精神的な支えにかかわれる何かが必要になることもあるのかもしれない。今年これから、そんな機会があるといいのにな。子供やお年寄りや障碍のある人達のことが、特に気にかかる。弱い人達。助けを必要している人たち。

つい自分の周りのこと、人にばかりかかってしまうけど、東北は近くないけど、いつも思っていたい、思っていなければ・・・そんなことを心にもう一度刻み込んだ今日だった。

こんな悲しいこと、もう二度とありませんように。
自然のことだから、予測できない、決められない、ないとは言えない、わかってるけど、何かが起きても、被害が少しでも少なくてすむように、そんな営みも進んでいきますように。いや、私達が協力して進めていくべしなのですね。

小さい祈りだけど、私のお祈りを、被災された方々、亡くなられた方々、その家族の方々に、捧げます。
神様、どうか豊かな慰めと励ましを与えてください。よろしくお願いします(_●_)
私達みんなが自分の与えられた器にふさわしい働きを見つけられますように。その働きを果たす機会を与えられますように。
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by butakotanaka | 2012-03-12 00:38 | 日常生活 | Trackback | Comments(0)